1. はじめに −本マニュアルをご使用される前に−

最近は「正しい抗菌薬診療を行う」、「抗菌薬の適正使用を行う」ことがよく医療者の話題にのぼるようになりました。しかしその実際を現場の診療で実践できるレベルで説明・解説することは容易ではありません。私は感染症の臨床および教育を行う一人の医師ですが、自身の実践することや教育することが空理空論にならぬよう、そしてその内容を客観的な目に晒して継続的に改善していくためにも「現場の診療で実践できるレベルで説明・解説」するための手引きが必要であると痛切に感じていました。そのために作成したのがこの手引きです。具体的には感染症診療の基本的な考え方と病歴身体所見の取りかたにはじまり、各臓器の感染症を診断するためのポイント、実際標的となる微生物、使用すべき抗菌薬、周術期予防的抗菌薬投与について記載しました。

本手引きには、あらかじめご説明しておくべき点が幾つかあります。

まず第一に本手引きは、最初に感染症診療の基礎的な考え方、病歴や身体所見の取り方、各臓器感染症を正しく診断するための基本的なポイントから記載されています。実際に感染症の診療をきちんと行う場合には、「感染症の診療に対する基本的な考え方」をきちんと理解していることと、「それを生かすために情報収集(病歴・身体所見・検査など)を適切に行える」ことが最も重要です。私が一医師として医療現場で感じるのは、医師の基礎的な技量としての病歴聴取・診察が軽視されており、検査所見ばかりが注目されていることです。例えば症例提示をさせると、いきなりCRPの値から議論を始める若い医師がいます。検査というものは、病歴と身体所見をきちんととって、検査前に疾患の検査前確率を高めたうえでオーダーして行わないと、「偽陽性」・「偽陰性」といった振る舞いをして臨床医を騙し、迷わせます。実際「あの検査さえオーダーしなかったら、この結果にこんなに迷わずに済むのに・・」等という声を現場でよく耳にします。私自身、若い先生方を教える時には彼らがこうした一件地味なステップをきちんと辿れるようになることを最大の目標にしています。逆に言えばこうした基本が出来ていれば、個々の臓器感染は簡単な応用でしかなく、個別の感染症の知識で不明な点・記憶が不確かな点があっても今ではインターネットなど適切な情報源をあたればすぐに出てくるわけですから、それほど問題にはなりません。臨床医学には様々な分野がありますが、臨床感染症学はそのなかでも病歴や身体所見の重要性が高い分野です。ここを軽視しては先に進めません。その意味で本マニュアルでは、病歴聴取・身体所見・正しい検査の進め方といった感染症の基本的なアプローチ方法に焦点を向けたつもりです。

第二に、多くの日本の医療機関の方々は、本手引きで取り上げられた抗菌薬の使用量をかなり多く感じられることと思います。これは本手引きを世界的に標準的に使用される抗菌薬量を見据えて記載した結果、そのように見えてしまうものと考えます。私は「世界的な標準治療法で使用する使用量が絶対的な正解ではなく、日本では日本なりの抗菌薬処方量があって然るべき」とのご意見があることはよく承知しています。しかし近年のPharmacokinetics/pharmacodynamicsの概念の進歩は目覚しいものがあって、この概念を基にした科学的な抗菌薬投与方法が提唱されてきており、このインパクトはもはや臨床の現場でも無視できなくなってきています。日本でこれまで行われてきた抗菌薬の投与法が、科学的な観点から再検討されつつあります。また、何よりも重症の感染症に罹患した患者を眼の前にした場合に、「学問的な成果の裏づけ」のある薬剤を「効果が実証されている使用量」で使って患者さんを救いたいと思うのは医療者として至極当然のことと思います。日本の医療機関の多くの方々が実際患者さんを眼の前にして、保険適応・保険適応量という制約の中で苦労しながら治療を行っておられるのは厳然たる事実です。私は感染症診療および教育を行う者の一人として現場の要請に答えるため、なんらかの「叩き台」を責任を持って提示必要があると考えました。当手引きにおける抗菌薬の使用量はその観点から選択されています。もちろん日本の保険診療の枠組みの中で収まるよう努力していますが、「患者を救う」という観点からどうしても譲れないものについては世界的なスタンダードを示す意味からも国際的な使用量を記載しました。

最後に、このマニュアルにはまだまだ多くの欠点があることは筆者も十分承知しております。例えば文献的な判断の根拠が乏しい部分については「歴史的な知見」を重視しましたが、それでも判断がつかない点については個人的な判断で記載している点もあります。抗菌薬の選択についても異論のある方も多いと思います。ただしこれは「形の無いものを形にする」以上ある程度避けられない点でありご理解頂きたいと思います。むしろ内容に対する建設的なご意見を是非頂ければと思います。

本手引きが現場で使えて、なおかつ教育効果のあるものとなっているかどうか、こればかりは読んで・使って頂く皆様に判断して頂くしかありません。むしろそうした部位については皆様の忌憚なきご意見を頂きたいと思います。こうしたご意見の中から、新しい知見が生まれ、それを取り込む形で本マニュルを成長させていければと考えています。

感染診療の手引き ©2006 Norio Ohmagari.